『風のたより』の登山論 |
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『風のたより』の登山論 |
『風のたより』の登山論私は昔、社会人の山岳サークルに入ってた事がありました。その時の私の登山の仕方は、必ずしも頂上に登らないものでした。景色がよければ何時間も休み、写真を撮ったりしました。だから山男たちに「佐藤君は若いのに(当時二十五歳)年寄りみたいな山の登り方をするなあ〜」と、笑われたものです。そんな私に、サークルの幹部たちは、中高年の会員の人たちを対象とした登山のリーダーをする事を押しつけてきました。もちろん私に異存はありません。 私は中高年の人たちと、お花畑の散歩したり、展望のいい場所でのゴロ寝したり、時には酒盛をした事もありました。夕焼けに心を休め、神話に想いをよせては星座を望み、御来光に感激したものです。中高年の人たちは実に登山を楽しんでいたように思います ところが、サークルの幹部たちは、そんな中高年の会員の人たちを疎ましく思っていたところがありました。体力差の故に、中高年の人たちは何かと足手まといになるからです。 幹部の人たちにとって山は、あくまでも戦いの場であり、彼らの最終目標はスイスアルプスやヒマラヤを征服する事で、日本の山は、そのための修業の場といった感じでした。だから、サークルの幹部たちが北アルプスでした合宿の時は、甲子園を目指す野球部のようなハードさがありました。その時、どうしてこんな合宿をやるのだろうと疑問に思った私は、サークルの幹部たちに尋ねた事があります。 答「より、高度な山に登るために必要な鍛練だ」 私「どうして、ついて来れない人を切り捨てるのか?」 答「事故を防ぐために必要な処置だ」 私「助けあいながら、山に登る事はしないのか?」 答「我々が、足手まといの人にレベルを合わせていては、訓練にならないではないか」 私「・・・・・・」 その時、つくづく思ったことは、山岳サークルの人たちは、登山が旅であるとは、これっぽっちも思っていないという事です。彼らにとって、登山はスポーツであり、山は征服すべき場所であり、頂上は目的地でありました。 登山には二つの側面があります。一つはスポーツとしての登山。 そして、もう一つは旅としての登山です。頂上までのタイムを競う登山、体力の限りを尽くす登山などは『スポーツとしての登山』と言えます。では、『旅としての登山』とは、どう言う事を言うのでしょうか? 例えば、北海道を旅する旅人で、一日で、どれだけの観光地を回ったかを自慢する人がいるでしょうか? 一日で多くの観光地を回る事は、全く馬鹿げています。観光バスで、五分刻みに移動するせわしない旅行に、旅の感動があるはずがありません。それより一ヵ所に時間をかけて、ゆっくりと見てまわった方が、印象も深いし、旅に奥行きがでるものです。 これは登山についても言えます。『旅としての登山』を考えた時、無理に重い荷物を持って山に登ったり、頂上までのタイムを競ったり、一日でたくさんの距離を歩くのは、馬鹿げています。 但し、『スポーツとしての登山』を考えているのなら別です。スポーツとしての登山を行なうつもりなら、景色よりもタイムに重点が移ってしまいます。 私は「風のたより」で幾つかの登山を企画しましたが、それらは全て『旅としての登山』です。だから体力のない人の参加でも歓迎しています。そして、登山の途中では、写真を撮ったり、ビデオをまわしたり、各自が好き勝手な事をします。もちろん、危険がある時には指示に従ってもらう事もありますが、基本的には『肉体を使った旅』をしているわけです。 「疲れるだけで何も面白くない」 と言う声もよく聞きます。 でも、ちょっと待って下さい。 確かにスポーツとしての登山は、興味のない人にとって疲れるだけで何も面白くないかもしれません。けれど、旅としての登山まで面白くないと思うのは早計です。 美しい景色を、素晴らしい展望を求めて旅する人なら、旅としての登山に幻滅する事はないはずです。疲れたら休めばいいじゃないですか。回りには素晴らしい自然があるはずです。喉が渇いたら、水を飲めばいいのです。その水は、驚くほど美味しいはずです。御弁当の御握も、どんな豪華なレストランで食べる食事より美味しいはずです。そして、山の中には、観光バスからでは見る事のできない、素晴らしい景色があるはずです。 【風より】
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