連載第1回/松浦武四郎伝 |
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連載第1回/松浦武四郎伝史上最大の旅人国家江戸時代は、庶民が、最も旅を楽しんだ時代です。しかし、こんなことを書くと、「おや、学生時代に習った歴史と違うぞ?」「江戸時代というのは、民が抑圧されてて、旅どころか移動の自由もなかったのでは?」 と思われる人がいるかもしれません。 しかし、そうではないのです。江戸時代の庶民が、日本史上一番旅をしているんです。 長崎のオランダ商館医師のE・ケンペルが、元禄4年(1691)に江戸旅行した時の記録『江戸参府旅行日記』によると、 「この国の街道には、信じられないほどの通行人が往来しており、ヨーロッパの大都市の繁華街と同じくらいに、人々が街道にあふれている。(中略)この理由の一つには、他の諸国民と違って日本人が、非常によく旅行するのが原因である」『江戸参府旅行日記』(E・ケンペル)より とあります。 街道が、ヨーロッパの大都市の繁華街と同じくらいに人々であふれているという表現に注目して下さい。 世界をまたにかけたヨーロッパ人の目から見て、日本人が相当、旅好きな民族に見えたようです。 これを同時のイギリスに置き換えるとどうなるか? 「十八世紀初頭において、遊覧のためにスコットランドに訪れる人は年に12人を越えなかっただろう」 という記録があります。 また十八世紀末にパリから50キロメートル離れた街道を一日旅していて、ただ1台の馬車にあったきりで、他に一人の旅人にも出会わなかったというイギリス人の記録があったりします。(神崎宣武『物見遊山と日本人』より) このように単純にヨーロッパと日本を比較してみても、日本人の旅人に対する熱心さは、世界最大です。 ケタ外れと言っていいでしょう。こうなると、日本人の旅好きを、単なる国民性と言ってすませていいのだろうか? という疑問が沸いてきます。単なる旅好きな国民と言いきるには、あまりにも桁はずれなデーターがでているからです。 八代将軍吉宗のころのデーターによれば、信州の善光寺が年間と20万人、回国のお遍路が10万人、秩父の巡礼が5万人、北アルプスの立山が 6000人、関東の成田山が 15000人、伊勢神宮は60万人だそうです。この他にも金毘羅山・白山・妙義山・三峰山・富士山などに大量の参詣者が訪れていますし、京都奈良鎌倉の神社仏閣などにも、かなりの数が参拝していますから、信仰旅行をしていた庶民の数は、莫大なものになります。では、なぜ、これほどまでに信仰旅行が盛んに行われたのでしょうか? 江戸時代のサークル活動通りゃんせ、通りゃんせここは、どこの細道じゃ? 天神様の細道じゃ ちょっと通してくりゃさんせ 御用のない者は通させぬ この子の七つの御祝いに御札を納めに参ります 旅人にとって関所ほど不便なものはなく、なかなか簡単には通してくれません。けれど、どんなに厳しい関所にも抜け道がありました。信仰旅行だとすんなりと通れたのです。 「この子の七つの御祝いに御札を納めに参ります」ならオーケーだったのです。 しかも、関所を通るための通行手形を発行するのが、お寺でしたから、そのお寺が信仰旅行を否定するわけがありません。 むしろホイホイと手形を発行し、旅行代理店のような仕事にも手をそめていたようです。 だから庶民は、信仰旅行にかこつけて、名所旧跡を見物したり、新種の種籾を買い付けたり、新しい農業技術・建築技術・土木技術を熱心に導入しました。 ここで江戸時代の庶民たちのサークル活動について述べてみたいと思います。実は、江戸時代の庶民たちは、実に活発にサークル活動をしていました。サークル活動のことを「講」と言います。 「講」 とは僧や民衆の集会をさす仏教用語でしたが、便利な表現なので、いろんな意味に使われ、「サークル」や「組合」の意味と同義語のように使われるようになりました。 講の中には、氏神講から、積み立て金融団体の頼母子(たのもし)講や、鍛冶屋組合のふいご講など、たくさんの講が生まれて、さまざまなサークル活動が全国で活発になっていたわけです。 さて旅の話に戻しますが、旅人のサークルも、たくさん誕生し、かなりの数の会員が全国を旅するようになりました。 その中でも最も大きかったサークルが、伊勢講です。 伊勢講のすごいところは、御師という営業社員のような人を全国に派遣し、神符や暦などを配付して、伊勢参詣のための説明会を開いたところです。 また、参詣の際には宿を指定し、参詣者が伊勢に到着すると御師が、参詣者を自宅に泊めて大歓迎しました。その歓迎というのも手がこんでいて、参詣者が到着するなり、「さあさあ、御風呂がわいています」と入浴させて、そして、御一向様が、髭をそり髪を結い直し、着物をあらためて座敷におちついた時に、主人が丁重な挨拶とともに遠路のねぎらいの言葉をかけるわけです。まるで温泉旅館のおかみのようですが、このような待遇に感動しない百姓はいなかったでしょう。 そして、そのあとの食事が豪華大判振る舞い。鯛の姿焼きに灘の酒にと、一生に一度食えるかどうかの御馳走攻め。寝る時には贅沢な客間に通され、見たこともない、ふわふわの羽布団に夢こごちになる。 そのうえ帰りには、お札などの、お土産をもらいます。いたれりつくせりのサービスですね。ここまでサービスが行き届いていれば、また来たいと思うわけです。 「伊勢参りは、いいぞ〜」 と口コミで宣伝が広がるわけです。 伊勢参りブームこうして御師たちは、伊勢参りがブームになっていくにつれ、しだいに商人の性格をもつようになりました。各御師たちは、カルテルを設定して、その縄張りの中の檀家と契約しました。安永六年(1777)の統計によると契約数は、 419万戸と言いますからすごいものです。これが本当なら、御師たちは、当時の日本の世帯数の8割くらいを網羅していたことになります。 こういうパックツアーは、全国の有名社寺で普通に行われており、江戸時代後期には、各種の講が指定していた、指定の宿が乱立していたようです。有名社寺が、このような旅行業務を熱心に行っていたわけです。 話がそれますが、指定の宿とは言うものの、統一基準など無く、サービスが悪いボッタクリ宿や暴力団が経営するような宿も多かったようです。 それに目をつけた大坂や江戸の行商人たちは、自らの経験を生かして、全国の優良旅館を選定してネットワークを作り、指定旅館制度を創始して、浪花講という優良旅館組合をつくりました。そして利用者には加盟施設一覧を記したガイドブックや、会員証や、道中案内が渡されました。そして旅館には、目印の浪花講の看板がかかげられました。ここまでくると、なんだかユースホステルを思いだしますね。 さらに会員が費用を積み立て、代表者を神仏参詣させるという代参議というツアーまで流行しました。 これによって、毎年村からの代表者が伊勢参りや金毘羅参りに出かけることができ、誰もが一生に一度は伊勢参りができるというわけです。 こうして伊勢講が全国的に広まり、浪花講などのツーリストシステムが発達してくると、ある日突然、伊勢参りのブームがおとずれます。ブームは、 260年にわたる江戸時代に15回ほど発生していますが、このブームがなんとも気違いじみた、御祭り騒ぎをひきおこしました。 ある日、気がつくと村から人間がいなくなる。村がからっぽになる。それは、もう神隠しのように消えてしまう。 どこへ消えたのかというと、みんな伊勢参りにでかけてしまった。そんな現象が、全国の津々浦々でおきたのです。 ある村では、6〜10歳くらいの子供たちが消えてしまう。 ある村では、女性全員が消えてしまう。 ある村では、老人が全て消えてしまう。 こんな現象が、全国で同時におきてしまうのです。当然のことながら、みんな旅支度などせずに出かけています。 お金も通行手形も持っていません。集団ヒステリーのように発作的に伊勢参りに出かけるのですから、そんなもの誰だって用意していません。 じゃあ、どうやって旅をしたのかと言いますと、野宿のためのゴザをかかえ、柄杓を一本を手にして沿道で施しを受けながら伊勢に向かったんですね。勝海舟のお父さん(勝小吉)も、そうやって伊勢参りをした口です。余談になりますが、柄杓は、施しを受けるための必需品で、 「どうか御恵みを・・・・・」 とさしだすために使います。 せちがらい現代で生活している私たちにしてみれば、こんな無銭旅行が成り立つのだろうか?と疑問に思いますが、それが成り立ったのですから驚きます。江戸時代の庶民たちは、喜んで旅人たちを受け入れたようです。 例えば、沿道の住民たちは、着の身者のまま柄杓一本を持つだけの人たちに対して、宿を提供したり、旅行費用をカンパしたり、食物・笠・ワラジなどをさしだしたり、馬・駕篭・舟を無料提供するなど大規模なボランティア活動が行われていました。 一万両といった莫大な寄付金を提供する商人たちもいたし、なけなしの小銭をポンと出してしまう人もけっこう多かったようです。 そのおかげで子供・奉行人・女性・貧者など通常では旅することが難しい人々が、イナゴの大群のように伊勢に押し寄せることができたわけです。その中には、親・主人の許可を得ない「ぬけ参り」も多くみられたと言います。ぬけ参りとは、集団家出・集団脱走・集団退職で伊勢参りに向かうことです。 驚くべきは、6〜10歳くらいの子供たちのグルーブ参拝です。ある日、突然、親にも奉公先の主人にも内緒で家をとび出し、柄杓一本持って伊勢へでかけます。少女たちの集団もいました。女性の旅人には、関所もうるさかったのですが、信仰旅行とあれば、堂々と関所を通れたようです。 宝永二年の伊勢参りブームの時に、京都所司代が1カ月間、京都を通過する参詣者に関する調査をしました。それによれば、
となっています。 成人男子より、女子供の方の数の方が圧倒的に多いというこの事実には、ただただ驚かされますが、江戸時代でも、それ以前でも子供に旅をさせる習慣があったようです。 今じゃ考えられないことですが、旅する子供たちを受け入れるなりホローするなりの社会条件が、雰囲気が江戸時代の庶民たちの中にはあったのでしょうね。江戸時代の旅のガイドブック『旅行用心集』には「旅は若輩のよき修行なり」 とありますし、「可愛い子には旅をさすべしとかや」という諺もありますからね。 信仰旅行とボランティア精神しかし、このような社会をどのようにとらえるか? そのとらえかたによっては、日本史や日本人に対する見方がずいぶん違ってくるから要注意ですね。たとえば、1705年の宝永二年に4月9日〜5月29日までの50日間、本居宣長がその数を調査し、その著作『玉勝間』に書いています。 それによると、50日間で 362万人。 ということは、単純計算にして1日当たり約 72000人。これを1日8時間で割ってみると、1時間あたり 9000人、1分間に 150人が通過していったことになります。当時の伊勢街道の道幅は、かなり狭いですから、ラッシュの新宿 駅なみに混雑していたことになりますね。第一に50日間で 362万人だなんて、お正月の明治神宮や鶴岡八幡宮より混んでいたことになります。すごいもんです。 さらに1830年の文政十三年の頃には、九州から出羽の国まで全国の人民、500万人が、突如として伊勢参りにでかけています。 500万人といえば、当時の人口の20パーセントにあたりますが、身体の不自由な老人や、幼い子供、お役目があって移動がままならない武士たちを除けば、人口の半分くらいが伊勢に向かったのではないかと思います。 ・500万人分のトイレは? ・500万人分の食料は? ・500万人分の宿は? そういった問題がでてきますが、それに対して大勢のボランティアたちが訪れて、せっせと炊き出しや、物資輸送を行ったようです。 なんだか阪神大震災に駆けつけたボランティアを思い出してしまいますが、そのようなボランティア精神に支えられてこそ、伊勢参りという熱狂的な旅行ブームが成り立っていたわけです。 何やら講釈ばかり書いてばかりで申し訳ありません。この連載の目的は、松浦武四郎という幕末に活躍した偉大なる旅人の物語を書くことにあるのですが、そのためにはもう少しばかり、 日本史における『旅』 日本史における『ボランティア精神』 日本史における『信仰』 というものを、高い位置から眺めていく必要があります。どうか、もう少しばかり難しいお話にお付き合い下さい。松浦武四郎の物語は、その後で登場致します。 《つづく》
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